わたしは”つらい”とき何をしてたかな

おはようございます☀️

 

 

 

☁️まずはブログについてぽつぽつ。

ブログを始めて4日目。そろそろ自分の経験したことを書いてみたいなと思って、

普段よりもすこし、ことばや構成を考えながら、今回のブログを書きました。

 

ちょっと重めかもしれませんが、誰かの参考になれればと思います。

 

(珍しく短めのイントロ…😌)

 

🍵読んでいただく前に

これから綴るのは、私が苦しかった時期をどう過ごしていたかということです。

 

ただ、どのような状況(自分の意思では動かしづらいこと)のなかで「つらい」と感じていたか、前提を明らかにしておく必要があると思うので、ここでお話いたします。

 

まず、私はとても環境に恵まれていたこと

支えてくれる家族や友人がいて、働かなくても経済的に困ることはありませんでした。

家族がいなくなる、家にいられなくなるといった、生活そのものが厳しくなることもありませんでした。

 

そして、なんだかんだ”耐え”られる精神・生命力があったこと

うつのようにはなりましたが病院には行かず、どん底へいっても起き上がれるタイミングがありました。よくしなりはするけれど、折れないメンタルを持っていると思います。

 

これらのことを前提に、お読みいただけると嬉しいです。

 

 

🍰いちばん苦しかった時期

23歳の今でも、つらいなとか、落ち込んでしまう日はもちろんあります。

けれど、「あの時に比べたら」と思えるほど

本当に本当に苦しかった時期がありました。

 

それは、5年の浪人期間。

 

ここで初めて投稿したブログのタイトルからもうかがえると思うのですが、

私は23歳で大学に入学しました。

いわゆる”仮面浪人”や”再受験”ではなく、勉強が得意でなかったために時間がかかりました。

 

今でこそ毎日楽しく過ごせていますが、ついこの間までは、世界が灰色に見えていました。

 

高校を卒業したのち、浪人を決意し、

母と、たまに店員さんとだけ話す2年間を送りました。

 

またその2年間は完全にひとりで勉強していたので、何か疑問が湧いても知恵袋にしか質問ができず、しっかり回答してもらえるどころか、つよめの言葉を受け取る日々でした。

 

家にいる時間が9.5割。

その上、当時は雨戸を閉めっぱなしにしており、陽を浴びる機会もなく、家族以外との交流がほとんどなく、どんどん坂を転げ落ちるようにして、暗い浪人期を過ごしていました。

 

とにかく、眠りたくない。

起きたらまた勉強をしなくてはいけない。

そして何より、真っ暗な未来について考えなくてはいけない。

何も楽しいことなんてないのに、何も笑顔になれることなんてないのに、明日を迎えなくてはならない。

周りがいろいろなことを経験し、違うベクトルで頑張り続けるなかで、私はずっと同じ日常を過ごしている。

 

朝、目覚める。だけどベッドから起き上がれない。

なかなか共感を得ることは難しいかもしれませんが、決して怠惰ではなく、本当に身体を起こすことができなかったのです。頭ではわかっていても、身体が動いてくれない。

ただ、目を開けて、自分を責めはじめる。

 

「どうして起き上がらないの?」

「人よりできないのになんで?」

「これから先どうするの?」

 

そんな問いかけが頭のなかで始まるのです。

現代の人たちが、朝起きるとまずスマホを手に取ることくらい、それくらいの、癖になっていました。

 

もしくは、何も考えられないこともありました。

頭のなかで「あーーーーーー」と、長いため息のように声を出していました。

天井を見つめたまま、すーっと、静かに涙が流れて、ただただ、虚無。

今でも、この感覚は忘れられません。

 

身体の変化もありました。(※浪人が原因でない可能性があります。)

 

浪人2年目:食べたものを戻してしまうようになる

浪人3年目:帯状疱疹性頭痛になる

浪人5年目:頭がふわふわとして意識が遠のく感覚が起こるようになる

 

体重は浪人前に比べ、10キロほど落ち、唇も肌も爪もぼろぼろになっていました。

こころも限界だったのか、毎日「しにたい」とつぶやいていました。

 

いのちを絶ってしまおうと思ったこともありました。

冷たい床に毛布を敷いて、ドアノブに紐を括って、こわいからお気に入りのぬいぐるみをそばに置いて、だけど見せたくないから私に背を向けさせていました。

 

すこしだけ紐に体重をあずけてみる。

でも私には、実行できるほどの度胸はありませんでした。

それどころか、「悔しい」と思ってきました。

どうして日々頑張っているのに、希望を叶えられないまま、何も掴めないまま終わらなくてはいけないんだろう。これじゃ人生の採算がとれない!と悔しくてたまりませんでした。

 

だけど、そうは思っても、もちろん自分の立っている場所は変わらない。

目の前には、自分にできるのかわからない課題と受験が終わるまでの長くて重たい時間だけがありました。

 

 

🍮耐えることができたのは。〜ひとのおかげ編〜

5年を通して、つらい気持ちがなくなることはありませんでしたが、

それでもなんとか投げ出さずにやってこられたのは、周りのひとたちのおかげです。

 

まず、2年目までは「受験生たるものSNSなどやるな」という、どこかで見た言葉のもと、LINE含め全てのSNSアカウントを消していました。

 

それでも大学に合格することができず、3年目の春、

寂しさと、誰かにこの思いを聞いてほしい気持ちが募り、ついにTwitterを始めたのです。

 

そこで出会うことができた友人が、私にとっての幸運のひとつでした。

 

全く学力が他のひとに及ばないのに、決して見捨てたり、否定するようなことを言わず、優しくアドバイスをくれていました。

それどころか、私が理解に苦しんでいるところがあれば、わかりやすく解説し、類題を探してくれることもありました。

 

また、「つらい」という言葉を口に出したときに、「わかるよ」と共感をもらえたのも、私にとっては救いでした。とてつもない努力をしてきたひとたちからかけてもらえることばは、芯があり、定型文ではなく、私宛に考えてくれたと強く思えるような、そんなことばでした。

 

友人たちにもおのおのの環境があり、向き合っている課題があるひとも多かったです。

家庭のことで悩んだり、進路のことで悩んだり。

それでも、努力は陰にして、たまにぽつっと嘆くくらいで、いつだって前向きに動いているひとたちでした。

 

友人たちも、はじめは浪人している人ばかりでしたが、受かったあともまだ浪人生である私と話したり、勉強してくれたりしていました。

 

こうして優しく温かく、そして信頼のおける友人と出会えたことで、私の浪人期は「つらい」一色ではなくなりました。

懸命に日々を送っているひとたちと過ごすうちに、自分も前を向いて動こうと思えました。

 

つらいときは、ないエネルギーを使って頑張るということをしなければなりません。

でも、そんな私に力をくれたのは、友人たちです。

彼らは今でも私の誇りで、大切な友達です。

 

そして、母の存在。

 

朝から晩まで働き、浪人生である私を励まし、支えてくれました。

私が何度受験に落ちても、「あなたは行きたい大学があるのだから、受かるまでやりなさい。私の目が黒いうちはいくらでも浪人しなさい。」と言って、泣いているばかりの私のそばにいてくれました。

私よりもやるせないはずなのに。

今も受験期も、幾度「こんなに自分を応援してくれる親をもてて、私は恵まれたな」と思ったかわかりません。

 

受験日の朝も、帰りも、最寄りの駅まで送ってくれていました。

母が共通テストのときにつくってくれたお弁当。私の好きなものをつめ込んでくれています。

私がそもそも浪人という選択肢がとれたのも、人よりも自分の行きたい大学・やりたいことを追い求める時間が持てたのも、土台はすべて母でした。

 

 

友人や母の支えがなければ、私は本当にこわれてしまっていたと思います。

 

つらいとき、誰かがそばにいることで、気持ちに変化が起きたり、散らかってしまった思考を整理できました

周りに誰もいないなら、インターネットのちからを借りて、どこかに飛び込んでみるようにしようと思えるようになりました。

 

 

🥞耐えることができたのは。〜じぶん編〜

 

5年ものあいだ、いくたびも落ち込むことがありました。

それでも、ただ落ち込んで立ち直ってを繰り返すうちに、

 

①なんとなくこういう心もちでいればいいな

②なんとなくこういうパターンで立ち直るな

③こういうことをしているといいな

 

というのが掴めるようになりました。

 

〈①について〉

 

まず、ずっと同じ状態でいないように心がけました。

あるとき、「このままでいたら、現状維持どころかよりつらい状況になるかもしれない。それならば、行動しよう。」と考えられたことがきっかけです。

 

1・2浪目は家にひとりでいて、ひとりで勉強していましたが、

→3浪目にはTwitterを始めたり、予備校に通わせてもらいました。

→4浪目にはアルバイトをして、息抜きに遊びにいくようにしました。

→5浪目には派遣社員として一人暮らしをしながら勉強するようにしました。

 

3年目以降は何かしら状況を変えることで、気持ちのリフレッシュをはかれたり、

同じような1年を送らないようにしていました。

 

またこの考え方は、本当に起き上がることのできなかったときにも、自分を鼓舞してくれました。

 

ずっと寝ていて成績なんて上がることはないし、またつらい1年を送ることになるかもしれない。いずれは友達も忙しくなってなかなか話せなくなる。ずっと下を向いて勉強しているから、身体も元気ではなくなってきているのに、これ以上落ち込んでいる暇はない。切り替えよう。

 

そう考えると、「ではあと30分落ち込んでいてもいいな。きっとそのうち落ち込み飽きるから、そしたら伸びでもして、ベッドから抜け出そう」と思うことができたのです。

 

そして、自分はいかに苦しくてもいのちを絶てないことがわかっていたので、「どうせ生きるのであれば、最大限の幸せを追い求めよう」という考えにシフトしました

 

こういう考えができたらいいなと思って実際にその考え方になれることは難しいと思います。

 

しかし私の場合、数回行動しようとしてみて、絶対に無理だ!とわかったことで、

自然と前向きになることができました。

 

 

〈②について☺︎〉

私が何度も落ち込んでいくうちに、

「今はこんなにもつらいけれど、こうしていればきっと立ち直るのを知ってるな」

と思えるようになりました。

 

私にとって、つらい気持ちというのは、

”幾度となくこころに訪れるもの”であると同時に、

”そのうちいなくなるもの”だとわかったのです。

 

もちろんいなくなるまでの時間は、本当に苦しいです。

涙が絶えず出てくるし、涙で視界が曇り、勉強したいのに文字が見えなくて余計に苦しくなる。さらに自分が情けなくなります。

 

けれど、そういうときは、いったん気の赴くままにしていいことにします

手を動かし続けてもよし。何かできそうな科目に移るもよし。寝るもよし。

真面目に机に向かうだけが勉強ではないですし、自分を壊してまでする努力をやめようと思ったのです。うまくいっている人は、適度に切り替えていることに気づきました。

ずっと動けるひとを見たことがなかったですし。

 

そうすると、時間が経つにつれて「つらい」の波がだんだんと引いていきます。

どんなに動けなくても、頭がその状況に飽きてきてくれるので、すこし動けるくらいのエネルギーが戻ってくるのです。

 

ひとしきり泣いて、何日間か空っぽのようにベッドの上で過ごしているようなときも、「このままじゃいけない。パッと切り替えよう」というタイミングが来ました。

気が進まなくてもスマホを使って、どうにか興味のあることを探しました。

見つけたものが食べものなら、たとえ遠くても食べに行ったり、絵を描きたいとなればお絵描きアプリを入れて描いたり。

とにかく、すこしでも惹かれて、このためにならぎりぎり動けるものを見つけ、実際に動く。

こうすることで沈んだ日々に変化を生んでいました。

元旦に初詣にひとりで行くようなことは、さすがに興味があってもおすすめしないです…

寂しさと虚無感で息が詰まりました( ;  ; )おみくじも容赦なくが出たりしますし!

 

私のこころは、どんなときも流動的でした。

楽しいと寂しいと嬉しいと物足りないと幸せとつらいと、…

本当にいろいろな感情が、移り変わっていくのに気づいたからこそ、

とりあえず今のこの「つらい」をやり過ごそうと思えました。

 

私のすきなアーティストに、スピッツさんがいます。

彼らの『スピカ』という歌のなかで、こんな歌詞が出てきます。

 

幸せは途切れながらも続くのです

 

私はこの歌詞がだいすきです。

なにごとも移り変わるのは、自分のそれまでの経験と重なりました。

幸せな時間が終わるように、つらい時間も終わってきました。

 

 

〈③について☺︎〉

いくつか自分の気分を下げないように心がけていたことがあります。

 

まず、自分に寄り添ってくれる音楽よりも、ドンと上げてくれるものを聴くようにしました

「きっと大丈夫」「つらい世の中だよね」ではなく、「負けるな」「そのまま進め」のような歌詞の曲を聴いていました。

いくつか載せます◎

 

(たくさん書いてしまいましたが、どれもおすすめです…!)

 

とにかく、上へ引力がはたらくような曲を聴きました。

つらいときに休むのは大丈夫でも、沈んでしまうことには耐えられなかったからです。

 

次に心がけていたのは、自己防衛をきちんとするということ

3年目からいろんな人と関わるようになったことで、

どうしても、苦しいなと感じる言葉や態度をしてくる人ともお話する機会が生まれました。

 

はじめは、そういうときでも自分の感覚をこらえながら接していました。

特に自分の意見も言わず、距離を取ることもせず。

 

例えば、自分がつらいときに、自分に相談してくる人がいました。

どんなに前向きな言葉をかけても、その人には響かない。

ただ、「つらい」という話を、自分のキャパを超えて話し続けられる。

話し終わったその人は、どこかすっきりとしているけれど、自分はマイナスの言葉を受け取ったまま、なんだか暗い気分を抱えている。

 

そんなことを繰り返すうちに、もうこんなことはやめようと思い始めました。

私は、母と友人たちにだけ真摯でいようと。

つまり、関わる人を選ぶようになったのです。

そして、主張することはする。

 

これは、言い方によれば、「自分の都合の良い人を選んでいる」となるそうです。

(以前にそう指摘されたことがありました。)

けれど、それの一体何が問題でしょうか。

 

今まで関わってきた人たち皆がみんな、自分に誠実であったかどうか振り返ったときに、「皆誠実であった」とは到底思えませんでした。でも、彼ら一人ひとりのことを気にしているかと言われれば、そんなことはありません。

自分と向き合ってくれなかったひとたちはよくて、私はいけないのはおかしな話です。それも、余裕のないときに。

 

もう、弱さからくる、歪んだ”優しさ”は持たないことに決めたのです。

自分では、形式的美徳とよんでいました。自分の内からの、相手のための行為ではなく、「そうしないと嫌われる・そうしないとかわいそう」と感じることからの”優しい”行為をやめました。

(いくら頑張っても本当に相手のためになるかはまた別のお話ですし…)

もっと余裕が生まれて、強い自分になってから相談を受けたり、刺激の強い人たちと関わろうと思いました。

 

すこし冷たい言い方ですが、皆に5ずつ配るよりも、大切なひとたちに大きな数ずつ配りたいというのが、私の想いです。

 

🫖あとがき

以上が私の浪人期に得られた、つらい時期の耐えかたです。

書くのに時間がかかってしまいましたし、言いたいことを詰めすぎてうまく表現できていない箇所もあると思います。

受験期に自分と、そしてつらさと向き合ったことで、精神的な抗体が作れたと思います。

生きているといろんな出来事が容赦なく起こりますし、こころを痛めてしまうことも不可抗力でつらい気持ちにならないようにすることはできません。

 

けれど、立ち直ることはできる。

考え方によってはその痛みを和らげることができる。

そう学ぶことができました。

 

私の経験が、だれかひとりにでも届いたら嬉しいです。

 

つらいを抱えたひとたちのこころが休まり、ひとつ、ふたつと幸せな気持ちで満たされることを、強く強く願っています。